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それとは逆に、ある発達段階までは、個人に介入したからと言って、成人後の「個人の自立」が阻まれるとは限らない。
むしろ、個人への適切で適度な介入は、「個人」の形成にとつて不可欠と言ってよいだろう。 ところが、「本当の自分」(自己の真正性)を尊重することと、自立した個人の形成とを素朴に結びツケでしまう子ども中心主義の教育は、結果として自立した個人が形成されないとしても、その原因をつきとめることを封じてしまう。
外部からの抑圧や介入を嫌う大人たちの感覚が、そのまま子どもの教育に投影されるからなのだろうか。 教育とは、本質的にそうした介入や抑圧を含む営みであることを忘れて、妥協の産物でしかないカギカッコ付きの「子どもの主体性の尊重」が、そのまま大人になった時の「主体性」を保証する教育だと勘違いされるのである。
「『ゆとり』教育は、『学力低下』によって国力を衰退させるだけではない、行き過ぎた自己中心的な個人主義を推し進めることによっても、国家に危機をもたらす」一部の学力低下論者の主張に見る国家という共同体への回帰は、なるほど、自己と社会の結びつきについての子ども中心主義の弱点をついている。 「本当の自分」を出発点におく子ども中心主義は、「自己」と「個人」とを区別できない。
「本当の自分探し」をいくらやっても、社会の1単位としての「個人」が鍛えられるわけではない。 「自分の興味、関心」にしたがって学んでいくことが、どうやって「社会」につながっていくのか。
その道筋も見つからない。 つまり、社会の1単位としての個人の力能を高める教育と、「本当の自分」を大切にする教育とを、疑いもなく結び付ける傾向が強いために、「本当の自分」と社会とを橋渡しする術を提供できないのだ。
それに対し、教育改革国民会議の議論に典型的に見られた社会奉仕の義務化という主張は、公共性への個人の関わり方を具体的な形で議論の俎上に載せた。 「公共の福祉」にナショナリスティックな色彩を振りまいた社会奉仕義務化の提唱は、自己の肥大化を抑制することで、公共の福祉に奉仕しうる個人を形成できるはずだ、という見込みを前提としている。
その意味で、子ども中心主義へのアンチテーゼと言ってよい。 問題なのは、公共の単位が、国家へとパラフレーズしやすいことにある。
奉仕の対象をどのような集団レベルに設定するのかには、多様性があるはずなのに、国家と一元化させようとする力が働くのだ。
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